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第12話 上田城
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本丸東虎口櫓門
日本100名城スタンプ設置場所
上田市立博物館
スタンプは再建された櫓門と南北の櫓を斜めから俯瞰した角度です。当然のことながらこれと同じアングルで撮影することはできませんので、代わりに櫓門を中央に南北の櫓を入れて撮影してみました。
■探訪記(2009.05.02)
 所在地 : 長野県上田市二の丸


 松代が真田信之(真田昌幸の嫡子)ゆかりの町とすれば、上田は幸村(昌幸の次男、信之の弟)ゆかりの町といってよいのかもしれません。上田駅前には真田幸村の像がありました。この像は幸村が青年期を上田で過ごしたということもあり、若い姿をしています。

 徳川の大軍を二度も退けた上田合戦、幸村最後の戦いである大坂夏の陣など真田氏の武勇に優れた戦いはなかなか有名です。現在も残るお城の中でもこれほどの大きな合戦を二度も経験し、なおかつ二度とも籠城側が勝利したというお城はあまりまりません。

 この上田合戦の舞台となった上田城は、一見、石垣も少なく土塁中心だし、本丸の形状もほぼ方形でそれほど堅固には見えません。徳川の大軍を破ったとは到底思えないのです。もちろん、守備側の知略等も功奏したのでしょうが、その秘訣は何だったのか。実際には城下町を含めた町全体が巧妙な縄張りだったらしいですし、実際行ってみると土塁の高さはなかなかのものです。

 ただ、やはり関ヶ原合戦に遅参した徳川秀忠同様、一見、「天守閣もない小城」とたかをくくってしまいそうな感じがどうしてもしてしまうのです。


本丸模型

上田城本丸模型

 南側から撮影。手前が現在駐車場になっている尼ヶ淵。ほぼ方形をしている本丸の東西に出入り口がありますが、東側が現在、上田城の顔になっている東虎口です。「虎口」とはお城(本丸)の表門のことをいいますので、上田城は東側に正門があったことが分かります。

 復元模型によると、全部で7つの櫓があったことが分かります。それぞれ二層櫓で塀や櫓門で結ばれています。北東の方角に隅櫓がないのは、北東が風水的に鬼門の方角に当たるためだと考えられます。事実、北東隅は角をつくっていません。このような構造は京都御所の「猿ヶ辻」などにも同様に見られます。


西櫓から本丸へ

西櫓
三段の石垣が見事

西櫓
長野県宝に指定されている

西櫓から駐車場方面
尼ヶ淵という川が流れていた

 上田城の駐車場は本丸の南側に面しています。本丸虎口は東側にあり、この駐車場があった南側はかつては尼ヶ淵という千曲川の支流が流れていたそうです。したがって、この上田城の別名を尼ヶ淵城ともいいます。このように、東側の守りを固めているのは、東側から攻め寄せてくる徳川の軍勢を想定した縄張りとなっていることにも起因するのでしょうが、この南側が天然の要害だったことにも関係していると思います。

 駐車場から西櫓を見上げると三段に石垣が積まれているのが分かります。それぞれいつの時代のものかは分かりませんでしたが、積まれ方がそれぞれ違って興味深いです。


本丸登り口

土塁と堀

内堀

 西櫓の脇に、本丸への近道がありました。ここを登っていくと一気に本丸です。もちろん、駐車場があったところは元々は川の底でしたから、この登り道はなかったと推察されます。

 本丸にあがって内堀と土塁を見ると、なかなか堅固な印象を受けます。幅の広い水堀に高い土塁。保存状態も良く、往時の様子が垣間見られました。


真田神社

真田神社入り口

真田神社拝殿

真田井戸

 上田城本丸には「真田神社」なる神社があります。上田城を築城した真田氏をはじめ、その後に上田城に入った仙石氏、松平氏の歴代藩主を祀っています。

 真田神社の裏手にある通称「真田井戸」。この井戸は横穴が掘られていて、その穴ははるか上田城の北方、太郎山まで続いているという伝承がありました。そこで、発掘調査をしたそうですが、結果は残念ながらそのような横穴は見つからなかったとの事です。


本丸東虎口

 ここが上田城の顔として最もふさわしい場所といえそうです。本丸へは東西にふたつの虎口がありましたが、そのうちの東側の虎口です。櫓門が中央にあり中は桝形になっています。左右には北櫓と南櫓の二つの櫓が控え、堂々とした造りになっています。

 余談ですが、この二つの櫓は明治になって一旦民間に払い下げられました。そうして上田市街の北郊、太郎山麓に設置された上田遊廓に移築されて妓楼として使われていたそうです。



 この東虎口門脇にあるひときわ大きな石を「真田石」とよんでいます。これは、築城時に真田昌幸が太郎山から掘り出して名づけたもので、一番目立つ本丸の門の脇に設置されたものだそうです。高さが約2.5m、幅が約3mもある巨石です。

 昌幸の子、真田信之が松代に移封になった時、父の形見にとその松代に運ぼうとしたのですが、大勢で運ぼうとしても全く動かず、石自体がこの場所を動くのを拒んでいるかのようだったそうです。そこで、信之も諦めてしまったとの事でした。以来、現在まで全く変わらず同じ場所にあり続けているのです。



 上の写真は上田城本丸の北東隅の写真です。

 堀と土塁が立派に残っていますが、隅に位置しているにも関わらず、へこんでいるのが分かると思います。これは北東の方角が鬼門に当たるためわざと角をなくしている、つまり北東を意図的になくしている工夫です。上田城のものはよく分かる形になっていますが、このように北東にくぼみを設けることは他のお城などにもよく見られます。面白いところでは、松山城(愛媛県松山市)の北東隅にある櫓は天神櫓といって神社風の造りをしています。

 これら上田城を散策して、駐車場に向かう途中の散策路が下の写真です。

 両側に土塁が見られます。つまり、往時は堀だったところに道ができているのです。この散策路は二の丸堀跡にあり、「けやき並木遊歩道」と名付けられています。

 延長は646間(1163m)あります。昭和3年(1928)から47年(1972)までは上田温電北東線という鉄道があり、電車が走っていました。そのようなことを思いめぐらせて歩いてみると、なるほど鉄道があった名残をなんとなく感じさせるなかなか風情のある道だった感じがします。。

2009.05.02訪問

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