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第26話 江戸城
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二重橋と伏見櫓
日本100名城スタンプ設置場所
楠公休憩所
和田倉休憩所
北の丸休憩所
皇居前広場から皇居正門になっている西丸大手門に架かる二重橋を撮影したアングル。奥に見えるのは伏見櫓です。

■探訪記(2009.12.05)
 所在地 : 東京都千代田区千代田



 江戸城の訪問からセカンドクオーター。つまり、26城目の訪問。

 思えば、2009年の2月から日本100名城のスタンプラリーを開始して、わずか一年足らずで4の1を制覇。ただ、家の近所を中心に回っているので、これから先は訪問のペースの落ちることと思います。ただ、26城目の訪問ということを考えると、2009年が100名城訪問をするにあたって、充実した一年となったことは間違いありません。師走のあわただしい中、つぶさな江戸城の訪問をすることができたので、レポートしたいと思います。


皇居外苑

皇居外苑の銀杏

楠木正成像

銀杏並木(丸の内付近)

 江戸城は縄張り、規模等すべての分野において国内トップクラスといえるでしょう。それもそのはずで、徳川家康以降、このお城の城主は将軍家である徳川氏だったからです。首都東京の一等地にあることから現在は皇居として利用されていますが、北の丸や本丸などは公園などとして市民に開放されています。

 皇居外苑は晩秋から初冬にかけてイチョウが見頃です。燃えにく材質ということで江戸時代から街路樹としてイチョウを植樹することが奨励されてきたといいますが、この付近には立派な木がたくさんあります。

 この皇居外苑の一角に楠木正成公の銅像があります。これまでもたくさんの銅像を見てきましたが、かなり秀逸なぶるいにはいるとおもいます。表情は勇ましくいかにも「武士」といった感じです。ただ、この楠木正成像が江戸城にあることがなぞです。江戸城を最初に築いた太田道灌なら納得できるところですが・・・。楠木正成といえば、河内国の千早赤阪(赤坂つながり?まさか。)で挙兵し、最後は現在神戸市にあたる湊川の戦いで足利尊氏の軍勢に敗れ自害したはず。後醍醐天皇による建武の新政樹立の功労者として、天皇ゆかりの皇居に銅像があるのでしょうか・・・?

 この銅像前にある「楠公休憩所」に日本100名城スタンプがありました。ついに26個目のスタンプゲット。デザインは二重橋と伏見櫓ということがすぐに分かり一安心。なにせ、お城によってはどの部分をあらわしたものなのかが分かりにくいところもありますので。


二重橋と皇居正門(奥に伏見櫓)

 安心して二重橋前へ行き、スタンプと同じアングルで撮影。この二重橋が現在の江戸城の顔です。この二重橋は現在皇居の正門となっている西丸大手門につながる橋です。二条城の東大手門や駿府城の大手門と極めて似た造りになっています。徳川氏のお城として特徴を出しているのでしょう。

 二重橋の名の由来は、もともとここに架かっていた橋の欄干が二重だったことによるものだそうです。現在架け替えられた橋はこのように欄干も一重になっていますが、変わらずに「二重橋」の名称で呼ばれています。


100名城スタンプと同様

皇居正門(西丸大手門)

伏見櫓

 この付近が江戸城の現在の顔です。残念ながら天守閣は現存も再建もされていませんので、ここが最も江戸城の風情と皇居として存在する現在の姿を現しているからでしょう。


坂下門〜桜田二重櫓

坂下門

宮内庁

桜田二重櫓

 二重橋前から堀沿いに坂下門の方に進みます。あの幕府の大老、井伊直弼暗殺事件で有名な桜田門は反対側になり、今回はいきませんでした。ただ、何度も訪れているお城なので行ったことはあります。ともかく、現在お堀がある部分を一周するだけでも丸一日がかりという感じになることと思います。それほど、現在でも大規模な遺構を残すお城なのです。高石垣や土塁などできわめて高くそびえたつ石垣を堀から見上げたとして、もし攻め手側の兵士だったらきっとこのお城の攻城を諦めたことでしょう。それほどの圧迫感があります。猿ですら、石垣上にたどりつくのが不可能だと思わせるほどです。

 この付近から宮内庁がみえます。平時には一般市民には開放されていない桔梗門から宮内庁関係者は出入りするようです。この門、かつては内桜田門と呼ばれていたそうです。さらにお堀沿いに進むと桜田二重櫓(巽櫓)があります。


大手門

大手門(一の門)

旧大手門渡櫓の鯱

大手門(ニの門)

 こうして歩くて行くとやっと大手門が見えてきます。やはりお城は大手門から入っていかねば・・・と変なこだわりがあります。現在の大手門は皇居東御苑の入口となっています。この皇居東御苑には天守閣跡や大奥跡など江戸城の中枢部分の跡地に行けるのです。

 大手門は桝形になっていて二つの門からなります。この大手門に限らず、江戸城の主要な門はほとんどこのような形式になっています。

 まずは、一の門。高麗門形式になっています。規模はさほどでもありません。将軍家のお城の大手門といえば、もっと立派なものを想像していたのでいささか拍子抜けです。ちなみにこの付近の普請工事はあの伊達政宗が志願して請け負ったということです。

 一の門をくぐると桝形になります。内桝形とよばれる形式になるかと思います。そして、直角に折れ曲がったところに二の門があります。こちらの門は櫓門形式で一の門に比べると頑丈な雰囲気がします。ちなみにここから先は東御苑と呼ばれている地区になります。この現在東御苑と呼ばれているところに本丸があり、松の大廊下や大奥の跡地、天守台などの歴史上有名な場所があるのです。


皇居東御苑

皇居東御苑地図(江戸城の縄張りが分かります)

 大手門から皇居東御苑に入場するとそこは三の丸です。ただ、その先をまっすぐ歩いて行った先には二の丸雑木林という区画があり、都道府県の木が植えられています。往時は二の丸と三の丸は区切られていたのだと思いますが、その辺りのことはよく分かりません。ただ、二の丸と聞くと、本丸に近づいているのだという実感があります。江戸城の中枢部に近づいたということでしょう。

 この東御苑も広大で、返す返すも江戸城の規模の大きさに圧倒させられます。さらにその縄張りの複雑さ。元々は、カタツムリの殻のように回転するように曲郭を配置するというのがコンセプトだったようです。このような縄張り配置は姫路城などにも見られます。江戸城の場合、そのカタツムリの出口を富士山の方角に向けて、パワーをもらうようにしたという説があると聞いたことがあります。


同心番所

百人番所

大番所

 本丸と二の丸を隔てる白鳥濠を右手に見ながら歩いて行くと、同心番所の建物があります。現在、江戸城内にはこの同心番所、百人番所、大番所の三つの番所の建物が残されています。本丸に近づくにつれて、上位の役人が詰めていたということです。この同心番所付近にも、立派な切り込みハギ積みの石垣があり、おそらく門の跡ではないかと想像します。

 さらに先に進んだところに細長い建物があります。この建物が百人番所です。百人番所の建物ももちろん圧巻ですが、さらに驚いたのはその先にある本丸中之門石垣です。発掘調査ののちに積みなおされたそうですが、巨石を用いた巨大な石垣遺構はそれまでの門のと比べても明らかに巨大です。この上に立派な門がのっかっていたわけですから、往時にはどのような迫力ある姿を見せていたのか大変興味がわいてきました。

 この本丸中之門をくぐった先に現存する三つの番所建物の最後のひとつ、大番所があります。そして、いよいよ江戸城の本丸へ。おそらくは相当の身分でないと立ち入れなかった区域だったところです。わくわくします。


本丸

 大番所からさらに登って行った先の石垣も見事。巨石を用いた切り込みハギ積みです。当時の技術水準の最高峰だったことでしょう。そして、本丸へ・・・です。


 ただ、この本丸入口脇の石垣は素人でも分かるほどに焼けた跡があります。火傷した石の表面は変色したり、ひびが入ったりしています。これは明暦3年1月18日(1657.03.02)におこった「明暦の大火」、世に言う「振袖火事」の時のものだということです。この「明暦の大火」では諸説ありますが、3〜10万人の死者を出したという未曽有の大惨事で、関東大震災や東京大空襲に匹敵するほどの被害を出したという恐ろしいものでした。

 この時に江戸城のシンボルである天守閣が焼失し、以降は再建されることなく現在に至っているのです。江戸の太平の世になり、天守閣が無用の長物になったとはいえ、将軍家のお城に天守閣がないのはいささか不自然のような気がします。ただ、いずれにせよ江戸開府が1603年ですから、わずか50年あまりで天守閣が焼失したということになります。


 その天守閣跡、つまり天守台は現在でも立派な姿をとどめています。規模はかなりのもので、本当にこの上に建物がのっかっていたとすると日本にある他のどのお城にも負けない最も大きなものだったということが容易に想像つきます。実際はどのような建物だったかは知る由もありませんが、天守台の説明板にあった「江戸図屏風」の絵によると、黒っぽい外観に千鳥破風を多用した造りになっています。なんだか見る角度によっては不等辺お五角形または六角形にも見えますが、天守台の形は実際には長方形をしています。


富士見櫓

松之大廊下跡

大奥跡

 この再建されなかった天守閣の代わりに実質天守閣のような存在だったのが現存する富士見櫓だったということです。ただ、やはり富士見櫓では将軍家お城の天守閣としては役不足です。現在広場となている本丸跡地の隅にひっそりと建っていました。ただ、それでも三重櫓だけあって他のお城からすれば天守閣級の規模を誇る建物であることはまちがいありません。

 本丸には他にも元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵の物語)の端緒となった松の廊下での刃傷事件の跡地や、大奥の跡地が見られます。

 さらには北桔梗門から北の丸へ。初めてみる平川濠や乾濠の深さに驚きです。さらに石積みの立派さ。東日本のお城はやはり石垣積みに関しては西日本のお城と比べて後れをとっていると思っていましたが、やはり江戸城だけは別格です。

 北の丸公園では、吉田茂像や日本武道館の外観を見学しました。十分満足。

 北の丸を出た後は、お堀沿いに東京駅まで歩いて帰りました。


2009.12.05訪問

第25話 高松城 第27話 鉢形城

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