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第27話 鉢形城
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三の曲輪復原四脚門
日本100名城スタンプ設置場所
鉢形城歴史館受付
スタンプは三の曲輪入口に復原された四脚門です。最近整備されたものと思われます。建物遺構はまったくありません。数少ないですが、復元された建物がこのように残されています。

■探訪記(2009.12.07)
 所在地 : 埼玉県大里郡寄居町大字鉢形



 日本100名城でなかったら、おそらく訪れることはなかったであろうお城です。正直、あまり有名ではありませんし、訪れるにもかなり時間と労力が必要ですので。ただし、訪れてからの印象は変わりました。このお城は、地形をうまく利用し、石垣ではありませんが立派な土塁を設けて各曲輪を隔てたなかなかのお城です。

 この鉢形城訪問に先立って訪れた同じ日本100名城の川越城は、そのスタンプ設置場所である本丸御殿が改修工事中であったので残念無念。スタンプ設置場所は道路を挟んで向かいの「川越市立博物館」に移っていましたが、この日は休館日で残念ながらスタンプゲットならずだったのです。この日は月曜日。実は鉢形城の日本100名城スタンプがある鉢形城歴史館も休館日でした。しかし、そのようなことは当日はつゆ知らず。おそらく休館日だということを知っていれば鉢形城を訪れることはしなかったと思います。ただ、運よくスタンプはゲットすることができました。これについては後述します。


鉢形城歴史館
外曲輪付近の土塁の遺構など。東武東上線鉢形駅から鉢形城方面に向かうと最初に確認できます。

 東武東上線の池袋駅から電車に乗って30分で川越に到着。決して駅から近くない川越城に行くと何と本丸御殿は改修工事中、代わりに「日本100名城スタンプ」の設置場所になっていた川越市立博物館は休館日。わざわざ川越に来たのに残念ながらスタンプゲットならず。

 あわてて駅に戻って、さらに埼玉県の奥地に移動。何とここから東武東上線の鉢形駅までは1時間もかかるのです。ついたところはここが関東なのかと疑うほどののどかな場所でした。鉢形駅に降りて幹線道路沿いに鉢形城へと向かいますが、なかなかの距離です。

 鉢形城とおぼしき付近に来た時に土塁跡の遺構を発見。石垣だとテンションも上がるのですが、「なんだ土塁かぁ」といった感じです。ただ、この付近はまだ深沢川の外側、外曲輪と呼ばれる一角にすぎません。案内図を見るとなかなかの規模。これならば期待持てるかも。

鉢形城歴史館 入口門 本日休館

 まずは日本100名城スタンプの設置場所である「鉢形城歴史館」へ。遠くから広々とした駐車場を確認しますが、車はほとんど停まっておらず。やはり平日だと訪れる人も少ないのかと思いましたが、駐車場入口の門が閉まっているのを確認した時に初めて不安がよぎりました。

 「まさか・・・休館日!?」

 その不安は的中。「またもスタンプゲットならずか・・・」とあきらめかけたとき駐車場わきの東屋のテーブル上にあるスタンプ(正しくはスタンプが押されてあった紙)を発見!


 日本100名城スタンプラリーの方へ
 「ご来館いただきありがとうございます。
 本日は休館日のため、スタンプを押した紙を設置しています。
 スタンプ帳に貼り付けてご利用ください。」


 と書いてあります。安堵・・・!


大手付近

 鉢形城歴史館から泉水坂という道を歩いていくと大手、つまりお城の正門に行くことができます。この付近にはJR八高線が通っています。お城の大手といえばその入口。鉢形城はそこから本丸まで一直線上に曲輪が配置されているので、いわゆる連郭式という縄張りになっています。


大手付近

諏訪神社鳥居

諏訪神社社殿

 大手付近奥に見える建物は実はトイレです。なかなかきれいでした。こういうところって汚いことが多いのですがね。さらにその付近に「諏訪神社」がありました。この付近は「馬出し」という場所で、お城の特徴的な防御施設のひとつです。もとは鉢形城の家老だった諏訪部遠江守が信州(長野県)諏訪神社を守護神として分祀したのが始まりだということです。


三の曲輪

復元された石積土塁1

復元された石積土塁2

復元四脚門

 日本100名城スタンプのデザインにもなっている復元四脚門。この付近は他にも石積みの土塁が復元されており、遺構をうまく残しつつ忠実に再現されているように感じます。この辺りのことが日本百名城のひとつとしての評価を受ける理由の一つなのだろうと思いました。

 この復元四脚門の先は「三の曲輪」になります。この三の曲輪にも復元された石積土塁や建物が存在しており、往時の鉢形城の様子が少しではありますが感じられるところです。ここでは庭園跡も発掘調査で見つかっており、歌会や茶会が催されていたことが分かりました。鉢形城が純粋に戦闘のためのお城だったわけではなく、日常の生活の場としての役割も持っていたことの証拠なのだと思います。

 なお、三の曲輪の最も高い位置は北条氏邦の重臣、秩父孫次郎が守ったところで「秩父曲輪」といわれています。


二の曲輪

左手が「馬出し」

馬出しの堀切り

馬出し

二の曲輪の土塁

二の曲輪から三の曲輪全景

二の曲輪全景

 三の曲輪から二の曲輪に至る途中付近におそらく鉢形城内で最も判然とした「馬出し」の遺構が残されています。北側に荒川を望み、それ以外の方角は薬研掘で堀切られています。馬出しの形が四角いので「角馬出し」と呼ばれており、後北条氏(鎌倉時代の執権職にあった北条氏と区別するために「後北条氏」としばしばよばれる)の城郭の特徴ということです。

 その先が二の曲輪です。三の曲輪よりも一段低い位置にあります。なかなか広い場所です。三の曲輪と違って何もありませんが、ここも往時は多くの建物があったことでしょう。


本曲輪・笹曲輪

本曲輪へ

田山花袋歌碑

鉢形城本丸址

本曲輪全景

本曲輪から荒川を見下ろす

笹曲輪

 さらに進むと本曲輪があります。ここが鉢形城の中枢部になります。本曲輪は三の曲輪や二の曲輪と比べたら小さいです。北側に荒川を望む絶壁上にあります。また反対側には御殿曲輪、御殿下曲輪などの曲輪が付属しており、これらを合わせるとなかなかの広さになります。また、本曲輪の一角には田山花袋の歌碑が存在し、鉢形城公園のフィールドマップにもその存在がしっかりと書かれてありますが、残念ながら解読できませんでした。

 本曲輪から先が搦め手(裏口)となり笹曲輪が広がります。ここには250分の1で造られた「鉢形城復元地形模型」があります。実際それだけの縮尺とはいえ、なかなか巨大なものです。見どころの一つといえるでしょう。


正喜橋

荒川

荒川越しの鉢形城

 鉢形城を後にして、荒川に架かる正喜橋を渡って寄居駅方面へ向かいます。その橋上、ふと鉢形城方向を望むと断崖上にあった自然の要害を巧みに利用した姿をよく確認できます。川を縄張りに組み入れ、さらに川の合流点付近に本丸(本曲輪)を配置する点など長篠城にそっくりだなと思いました。荒川の流れも都心部である下流の様子とは全く違う姿を見せてくれます。


2009.12.07訪問

第26話 江戸城 第28話 大阪城

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