元々は上円下方墳だったといわれていますが、盛り土が失われてこのように巨石でつくられた石室だけが残っています。1933、34、54年と調査が行なわれ、墳丘の規模が確認されました。すなわち、墳丘は一辺51メートルで、周囲には、南北83メートル、東西81メートルの外堤をもっていたことなどが分かりました。現在は明日香村にあるもののうち、飛鳥時代を代表する遺跡として、周辺がよく整備されて残っています。古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族、蘇我馬子の桃原墓(日本書紀巻第二十二 推古天皇三十四年「大臣・・・桃原墓に葬る」)であるとの説が最も有力視されています。