写真で見る日本の歴史
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208-8
琵琶湖疏水蹴上
合流トンネル入口付近
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琵琶湖疏水蹴上
合流トンネル北口
209-2
琵琶湖疏水蹴上
藉水利資人工
209-3
琵琶湖疏水蹴上
京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区
大神宮橋まで流れてきた琵琶湖疏水の水は、ここでインクラインがあるため行き止まりとなります(写真左先)。ここからは流れが複雑で、十分に確認したわけではありませんが、おそらく正面の赤い水門をくぐっていくものと思います。
南側の入口は確認できませんでした。第1疏水と第2疏水が合流する長さ87mのトンネルです。北口洞門には、工事責任者の田辺朔郎の揮毫による石額文字「藉水利資人工」があります。
この扁額は、工事責任者の田辺朔郎博士の揮毫によるものです。「藉水利資人工」(すいりをかりてじんこうをたすく)と書かれており、「自然の水の力を人間の仕事に役立てる」という意味です。 第二疏水からあふれた水が第一疏水に一部流れ込むようになっています。
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琵琶湖疏水蹴上
自動除塵機1
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琵琶湖疏水蹴上
自動除塵機2
209-6
琵琶湖疏水蹴上
蹴上発電所水圧鉄管
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琵琶湖疏水蹴上
蹴上発電所
京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区
蹴上の発電所に送水する前に、この機械で自動的に藻などのゴミが取り除かれます。取り除かれたゴミは、正面のコンベアの乗って運ばれて、処分される仕組みになっています。 ゴミが取り除かれている様子です。ずっと稼働しているわけではなく、ある一定の時間がくると稼働しているようです。 有効落差36mです。この送水管をとおった先に蹴上の水力発電所があります。水力発電に使用された水は、南禅寺の船溜のところで再び疏水に合流します。 日本初の水力発電所です。この建物は、明治45年(1912)に完成した第二次の蹴上発電所の建物跡です。入口正面には「亮天功」(てんこうをたすく)という扁額が掲げられています。現在は、隣接する場所に施設を移して稼働しています。水力発電所は、墨染、夷川、蹴上の三か所があり、現在も約20000世帯に送電しているそうです。
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琵琶湖疏水蹴上
蹴上浄水場入口
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琵琶湖疏水蹴上
蹴上浄水場建築物
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琵琶湖疏水蹴上
田辺朔朗像1
210-2
琵琶湖疏水蹴上
田辺朔郎像2
京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区
三条通り、蹴上から九条山を越える途中にあります。後ろに見える土手にはツツジが植えられており、毎年5月の連休に一般公開されます。場内全体で約7000本のツツジがあるそうです。 明治45年(1912)、第二疏水、蹴上第二発電所とともに完成した浄水場です。毎日99000立方メートルの水を給水しています。日本最初の急速濾過方式が採用された浄水場です。浄水場自体の規模は、京都市内で最も小さいということです。
琵琶湖疏水のインクラインを見下ろす蹴上の地にある田辺朔郎の像です。米国の水運・水力発電調査に出発した横浜港で撮影された写真をモデルに京都の彫刻家江里敏明氏が制作したとの事です。右手には疏水工事の図面を持っています。視線の先には蹴上浄水場があります。昭和57年(1982)に市民の寄付によって建立されました。
田辺朔郎は、文久元年(1861)、幕臣の洋式砲術家田辺孫次郎(蓮舟)の長男として江戸に生まれた。当時の京都府知事、北垣国道が琵琶湖疏水工事にあたり、朔郎の工部大学校の卒業論文に感動し、それがきっかけで朔郎は京都に招かれ、責任者として工事を担当することになりました。
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琵琶湖疏水蹴上
田田辺朔郎像3
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琵琶湖疏水蹴上
顕彰碑(田辺朔郎像説明板)
210-5
琵琶湖疏水蹴上
紀功碑
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琵琶湖疏水蹴上
琵琶湖疏水殉難碑
京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区
琵琶湖疏水は大変な難工事でしたが、疏水第一トンネル工事では二本の竪坑を掘って工事の効率化をすすめるなどして貫通させ、明治23年4月に第一疏水が竣工しました。また、朔郎は琵琶湖疏水で水力発電を行うことを思いつき、日本初の水力発電所となる蹴上発電所も完成させました。昭和19年(1944)9月5日に亡くなりました。 京都市が建立した顕彰碑です。碑文の最後には、「我が国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に、近代都市京都の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建て、ここに顕彰する。」とあります。 田辺朔郎の還暦祝いに京都府が建立したものです。高さ約4.5m。田辺朔郎像の隣にあります。 明治35年(1902)に、工事犠牲者を追悼するため、田辺朔郎が自費で建立したものです。碑文には、「一身殉事萬戸霑恩」(いっしんことにじゅんじばんこおんにうるおう)あります。「疏水工事殉じた人々によって、多くの家庭が恩恵を得られた。」という意味でしょうか。
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琵琶湖疏水蹴上
琵琶湖疏水殉難碑(裏側)
210-8
琵琶湖疏水蹴上
義経地蔵
211-1
旧大野木場小学校
全景
211-2
旧大野木場小学校
砂場跡
京都市東山区・左京区・山科区 京都市東山区・左京区・山科区 長崎県南島原市 長崎県南島原市
裏側には琵琶湖疏水工事の事故などにより亡くなった人夫の名が刻まれています。碑文の最後には、「琵琶湖疏水工事主任工学博士田邉朔郎建立」とあります。大正8年(1919)、疏水開通30周年式典に際し、京都市に寄贈されました。 田辺朔郎像のすぐそばにあります。源義経が遮那王とよばれていた頃の伝説です。奥州に向かう途中、平家の武者が後を追ってきました。その武者が乗っていた馬が水たまりの水を跳ね上げ(「蹴上」の由来)、遮那王にかけてしまいました。遮那王はそれに怒って、斬り捨てたというのです。その後、冷静になった遮那王はここにその武者を弔って地蔵を建立し、供養したそうですが、その地蔵がこの義経地蔵だそうです。
平成3年(1991)9月15日18時54分、継続時間670秒の最大規模の火砕流が発生しました。火砕流は、北東側斜面からおしが谷を流下し、垂木台地で南東に方向を変えましたが、その熱風は谷の出口から直進して大野木場小学校をはじめ付近の民家等153棟を焼失させました。この火砕流のすさまじさを伝える遺構として、唯一大野木場小学校が保存公開されています。
旧大野木場小学校の校庭の片隅にあった砂場跡です。使う子どもたちもなく、荒れ放題でした。
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