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070-6
大阪城
秀頼・淀君ら自刃の地 |
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070-7
大阪城
天守閣4 |
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071-1
長崎眼鏡橋
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071-2
長崎眼鏡橋
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大阪府大阪市中央区 |
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大阪府大阪市中央区 |
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長崎県長崎市 |
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長崎県長崎市 |
慶長21年(1615)の大坂夏の陣で徳川方に攻められ、城中で自害した淀君と、その子豊臣秀頼の自刃の地です。石碑が建っていますが、訪れる人は少なく、見過ごしそうな場所にあります。淀君は、父は浅井長政、母は織田信長の妹、お市の方です。長政とお市との間には他に2人の娘があり「浅井三姉妹」と呼ばれていました。長女が茶々(淀君)で後に豊臣秀吉の側室となります。次女のは京極高次に嫁ぎました。三女はお江といって、2代将軍徳川秀忠に嫁ぎました。3代将軍家光の生母でもあります。
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大阪城天守閣の最上階の外観には竜虎の模様がみられます。大坂夏の陣図屏風にもあり、豊臣時代の天守閣の再現ということが分かります。
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中島川に架かる石橋群の中で第10番目になります。わが国最古の石造りアーチ橋で、寛永11年(1634)に近くにあるお寺の興福寺の僧、黙子によって架けられました。この橋は正保4年(1647)や昭和57年(1982)の洪水によって損壊しましたが、その都度架け替えられ、現在に至っています。重要文化財。
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このように水面に映える姿が、眼鏡のように見えることから「めがね橋」の愛称で長崎の人たちに親しまれていましたが、明治15年に正式に「眼鏡橋」と命名されました。観光都市長崎を代表する景色のひとつです。
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072-1
諫早眼鏡橋
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072-2
諫早眼鏡橋
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073-1
青の洞門
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073-2
青の洞門
山国川 |
長崎県諫早市 |
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長崎県諫早市 |
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大分県中津市 |
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大分県中津市 |
佐賀藩諫早家が治めていた江戸時代、市内の中心を流れる本明川は毎年のように氾濫していたので、まともな橋はなく、市民は川のあちこちに飛び石を並べてそれを渡ったりするなど不便な生活をしていました。そんな折、幕府から領地検分の使者がやってくることになりました。そこで、川を渡るのに飛び石を使わせては諫早の恥になるので、橋を架けようとの機運が沸き、市民の募金・僧侶の托鉢などで資金を集め、架けられました。長崎の眼鏡橋をもとにしたといわれています。
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橋の長さ49.25m、幅5.5m、石の数は約2800個も使用しています。非常に頑丈な橋で、毎年のように氾濫していた本明川に架けられましたが、以後は一度も流失することはありませんでした。昭和36年の川幅の拡張工事に伴って一度は壊される運命にありましたが、市民の呼びかけにより、もとあった場所から約450m離れた現在の場所(諫早公園)に移築されて事なきを得ました。ここだと、洪水による氾濫の心配もありません。
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日本初の道路トンネルといわれています。仏道の修行のために諸国を行脚していた禅海和尚が、この地を訪れた際、山国川沿いの岩壁にかかる鎖渡の桟道から踏み外して墜死してしまった人を目撃しました。そこで、この岩壁を穿って安全な通行路をつくろうと発起し、苦節30年、ついにノミと槌により堀り続けた青の洞門は、延享3年(1746)9月10日に完成しました。
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山国川沿いに岩壁がせり出しているのが分かります。この岩壁には、耶馬渓羅漢寺に参詣するため、鎖渡(くさりど)と呼ばれる板が並べられ、そこを足場に人々は通行していました。そのためここは難所で、しばしば通行する人馬が足を踏み外して崖から川に落ち死んでいました。
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073-3
青の洞門
青の洞門全景 |
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073-4
青の洞門
禅海和尚の像 |
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073-5
青の洞門
青の洞門入口 |
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074-1
青の洞門
青の洞門入口 |
大分県中津市 |
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大分県中津市 |
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大分県中津市 |
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大分県中津市 |
このように、岩壁に穴があけられ、そこを道路がはしっています。現在は、自動車が通行できるように拡幅されていますが、一部は、禅海和尚がつくった当時のままで残されている場所もあります。
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禅海和尚は、越後(新潟県)出身の僧です。仏道修行のために諸国を遍歴していた途中、山国川沿いの岩壁にかかる鎖渡の桟道から踏み外して墜死してしまった人を目撃しました。そこで、岩壁を掘り抜いて安全な通行路をつくろうという一大誓願を起こしました。そのことを周辺の村々に説いて回りましたが、人々は相手にしませんでした。しかし、禅海和尚はあきらめず、独りでノミと槌を手に大岩壁に立ち向かったのでした。最初は、人々も狂人と嘲笑していたのですが、和尚のひたむきな様に心を動かし始め、やがて多くの協力にもとで、苦節30年、トンネルは、延享3年(1746)9月10日に完成しました。
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自動車が通行できるように旧態を改めてしまっているトンネルとは別に、禅海和尚が残したトンネルが一部残されています。
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日本初の道路トンネルといわれています。青の洞門の入口です。全長は342mあります。禅海和尚の手掘りの洞門とは別に、現在ではこのように自動車が通れるように拡幅してあります。しかし、一部は当時のままに残されており、ノミの跡などを見ることができます。
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074-2
青の洞門
禅海てぼり洞門入口 |
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074-3
青の洞門
てぼり洞門1 |
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074-4
青の洞門
てぼり洞門2 |
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074-5
青の洞門
ノミの跡 |
大分県中津市 |
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大分県中津市 |
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大分県中津市 |
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大分県中津市 |
禅海和尚の手掘り洞門の入口です。この先は狭くて暗いトンネルが続きます。 |
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手掘り洞門の内部です。観光用に残しているものと思われますが、中は薄暗く人がいなければ不気味でさえあります。
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禅海和尚てぼりの洞門内部です。一部コンクリートになっています。 |
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このノミの跡を見ても、禅海和尚の苦労の跡がとても分かります。この一本一本の積み重ねで数十年の後に洞門の貫通が成されたと考えると壮絶です。
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074-6
青の洞門
自動車用トンネル |
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075-1
歴史人物
006天草四郎 |
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075-2 歴史人物
007井伊直弼 |
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075-3 歴史人物
008二宮尊徳 |
大分県中津市 |
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長崎県島原市 |
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滋賀県彦根市 |
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静岡県掛川市 |
自動車が通行できるように旧態を改めてしまっているトンネルです。とはいえ、禅海和尚が残した恩恵は今も変わらないものと思われます。
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(あまくさしろう)関ヶ原の合戦に敗れた小西行長の元家臣、浪人益田甚兵衛好次の四男として生まれました。幼少の頃から中国の難しい書物を暗唱したりと神童とうわさされ、美少年であったことから大変人気がありました。そして1637年、島原の乱がおこった際に総大将として、島原・天草の農民や小西行長の元家臣の浪人衆とともに幕府軍と戦いました。しかし、翌年2月28日に原城に篭城する一揆軍に対し幕府軍が総攻撃をかけ、3万7千人ともいわれる老若男女が天草四郎とともに討死したのでした。
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(いいなおすけ)彦根藩主、井伊直中の14男として生まれました。5歳の時に母、17歳の時に父を相次いで亡くしました。その後は、わずか300俵の捨扶持で余生を送る運命でしたが、思いがけなくもその兄たちの相次ぐ死により、藩主となりました。その8年後にはなんと江戸幕府の大老に就任しました。大老の時には、将軍継嗣問題で強引に南紀派の徳川慶福を推し、徳川斉昭らの反感を買いました。また、日米通商条約勅許問題でも朝廷の許可を得ないまま条約を調印するなどその強引さに反発が激しくなりました。これに対し、安政の大獄で反対派を処刑したため、その翌年、桜田門外にて水戸浪士により暗殺されました。
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(にのみやそんとく)二宮金次郎の名で有名です。勤勉・禁欲家の象徴的存在です。天明7年(1787)に相模国栢山(かやま)村(現在の神奈川県小田原市)に生まれました。10代のころに相次いで両親を亡くし、伯父の家で育ちました。その間、家の仕事を手伝いながら独学で勉強し、荒地に菜種を植え、捨てられた苗を育て、懸命に働いて20歳のときに生家を再興しました。その後、小田原藩の家老服部家および栃木の桜町領の財政立て直しをまかされて成功。ついにその働きを認められ、幕府の役人となりました。
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