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  • 1700から1321-1340件を表示
  • 238-4長矩公夫人の墓

    【泉岳寺】浅野長矩夫人は阿久里姫といいました。夫が切腹によって亡くなると、落髪して瑤泉院と名乗りました。41歳で死去、泉岳寺で夫の隣に葬られました。

    (東京都港区)

  • 238-5義士墓1

    【泉岳寺】討ち入りに参加した47人と討ち入り前に自刃した萱野三平の墓、計48基があります。現在も参拝者らによる線香の煙が絶えません。

    (東京都港区)

  • 239-1義士墓2

    【泉岳寺】向って右から、大石瀬左衛門信清、矢田五郎右衛門助武、奥田孫大夫重盛、赤埴源蔵重賢、早水藤左衛門満尭、潮田又之丞高教。彼らは、大石内蔵助とともに、細川家のお預けとなった17人にふくまれます。

    (東京都港区)

  • 239-2大石内蔵助墓

    【泉岳寺】元禄16年2月4日(1703.03.20)に、江戸の肥後熊本藩の下屋敷で幕府の命によって自刃した大石内蔵助の亡骸は、泉岳寺のこの地に埋葬されました。享年45。

    (東京都港区)

  • 239-3大石主税墓

    【泉岳寺】父である大石内蔵助と同年同日ほぼ同時刻に切腹。主税ら10人は松平隠岐守定直(伊予松山城主)にお預けとなり、伊予松平家の三田中屋敷(東京都港区三田二丁目)で自刃しました。現在この屋敷跡は、イタリア大使館となっています。

    (東京都港区)

  • 239-4赤穂義士記念館

    【泉岳寺】入場料500円。浅野内匠頭長矩しようと伝えられている陣笠、討ち入りの口上書などが収められています。また、元禄赤穂事件を伝えるビデオも上映されています。

    (東京都港区)

  • 239-5義士引揚げ行列

    【泉岳寺】義士の快挙が太平の世に一石を投じ、波紋を投げかけたことを、水盤からの一条の水の流れで表しています。また、池の中には義士の引揚げるときの隊列を資料により配置しました。(以上、「赤穂義士記念館パンフレット」より)

    (東京都港区)

  • 【国宝建築8】

    240-1東照宮陽明門

    【国宝建築8】一日中見ていても飽きない門ということから、「日暮門(ひぐらしもん)」とよばれています。寛永13年(1636)の完成です。明治時代までは、庶民はこの門の先には入ることが許されていませんでした。陽明門の名の由来は、京都御所にあった門にちなんでとの事です。

    (栃木県日光市)

  • 240-2法隆寺鐘楼

    【国宝建築8】法隆寺東院伽藍の中、中宮寺に向かう途中にあります。袴のような下層の形はその名の通り、袴腰とよばれています。

    (奈良県生駒郡斑鳩町)

  • 240-3日吉大社東本宮本殿

    【国宝建築8】日吉造とよばれる全国でもこの日吉大社でしか見られないつくりをしています。説明板によると「東本宮本殿は、西本宮本殿とほぼ同様の造りですが、背面の三間の床が一段高くなっているのは、異なるところです。」とあり、ほぼ同じ外観をした西本宮本殿との違いが説明されています。ちなみに、西本宮本殿の建築は天正14年(1586)です。

    (滋賀県大津市)

  • 240-4瑞巌寺本堂(元方丈)

    【国宝建築8】奥の細道にも出てくるあの松尾芭蕉が立ち寄ったとされる陸前松島の瑞巌寺にあります。慶長14年(1609)の完成。禅宗の方丈とよばれる建物に書院を付け加えています。左側には御成玄関と呼ばれる建物が付属しています。

    (宮城県宮城郡松島町)

  • 240-5三宝院唐門

    【国宝建築8】三宝院は撮影禁止場所で、残念ながら内側の庭園から見る唐門の姿はお見せできません。しかし、このように外側の醍醐寺参道からは撮影できます。建築当初は、黒漆塗りで、菊と桐の紋は金箔で装飾されていたということです。

    (京都府京都市伏見区)

  • 241-1唐人屋敷跡の碑

    【唐人屋敷跡】元禄元年(1688)に造成が開始され、翌年の元禄2年(1689)に中国人の居留地として完成しました。広さ36252平方メートル(9373坪)もあります。密貿易を取り締まるため、周囲は煉塀と竹矢来で囲まれており、自由に行き来はできませんでした。2000~3000人の中国人を収容することができたということです。

    (長崎県長崎市)

  • 241-2唐人屋敷絵図

    【唐人屋敷跡】二階建ての瓦葺き長屋が20棟。地主神を祀る土神堂や天后堂、観音堂(関帝堂)などもあります。入口は大門、二ノ門という二つの門で厳重になっており、入口には番所があります。

    (長崎県長崎市)

  • 241-3広馬場商店街

    【唐人屋敷跡】文久3年(1863)ころ、居留地として梅香崎までを埋め立てて広馬場と名付けました。写真はその現在の姿、広馬場商店街の入口です。右手は館内市場、先に歩いて行くと正面に土神堂があります。なお、この門は二の門とよばれています。

    (長崎県長崎市)

  • 241-4土神堂入口

    【唐人屋敷跡】館内市場を右手にみた先に、土神堂の入口があります。もともと唐人屋敷があったころは、正門である大門、二ノ門をくぐった正面にありました。唐人屋敷が完成した2年後の元禄4年(1691)に建立されました。

    (長崎県長崎市)

  • 241-5土神堂

    【唐人屋敷跡】土神堂は元禄4年(1691)に唐船の船主らの願いによって建てられました。天明4年(1784)の大火で焼失しましたが、後に唐三か寺によって再建されました。その後は改修されながら存続していましたが、老朽化が進んでいたことに加え、原爆の被害を受けたことから昭和25年(1950)に解体されました。現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元工事を行ったものです。

    (長崎県長崎市)

  • 241-6唐人屋敷の堀1

    【唐人屋敷跡】密貿易を防ぐなどの理由から、唐人屋敷の周囲は堀と塀で囲まれ、その外側には竹垣がありました。この小さな川は、唐人屋敷の西側の堀の名残です。

    (長崎県長崎市)

  • 241-7唐人屋敷の堀2(森橋)

    【唐人屋敷跡】唐人屋敷の西側の堀跡には、この森橋という小さな橋があります。この橋は明治25年(1892)に造られた石造りアーチ橋です。寄贈者の森伊三次氏の名前からこの名がつけられました。

    (長崎県長崎市)

  • 242-1天后堂1

    【唐人屋敷跡】唐人屋敷の南西隅にあります。天文元年(1736)、南京地方の人々が航海の安全を祈願し、航海の神「天后聖母」をまつったのが起源とされています。その後、寛政2年(1790)に修復されました。現存する建物は、明治39年(1906)に全国の華僑の寄付で建てられました。

    (長崎県長崎市)

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