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板垣退助
Itagaki Taisuke |
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自由民権運動の創始者 |
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前 | 後  |
生没年 |
1837(天保8年).4.17〜1919(大正8年).7.16 |
関係人物 |
父 |
乾正成(土佐藩士) |
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名 前 |
乾猪之助→乾退助→板垣退助 |
法 名 |
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生涯 |
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土佐藩の上級武士の長男として、土佐(現在の高知県高知市本町2丁目)に生まれました。
明治元年1月、迅衝隊を率いて戊辰戦争に参加。総督府参謀を務め、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争に従軍しました。
明治4年から新政府の参議となりましたが、2年後には征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛とともに辞職しました。西郷隆盛はその後、西南戦争を起こして敗れましたが、板垣は民選議院設立建白書を政府に提出、つづいて高知に立志社をつくり、自由民権運動をはじめました。
その後、日本で最初の全国政党である自由党を結成し、総裁になりました。翌年、遊説の途中、岐阜中教院で演説した直後、刺客に襲われました。その時に有名な「吾死スルトモ自由ハ死セジ」という言葉が生まれました。一命をとりとめた後も政界で活躍し、内務大臣などを歴任しました。
64歳で引退後は社会福祉事業などに携わりましたが、自由民権運動に私財を投じていたため、晩年は決して豊かな暮らしとはいえなかったようです。82歳でこの世を去りました。 |
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■高知城(高知県高知市) |
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■岐阜城公園(岐阜県岐阜市) |
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