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第54話 会津若松城
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会津若松城天守閣

日本100名城スタンプ設置場所
会津若松城天守閣
スタンプのデザインは妻側を正面とした天守閣です。しかし、分かりにくいですが写真は若干破風の位置に違いがあります。本当は北側だと思うのですが、そこだと手前の石垣が邪魔をするので、南側から撮影した天守閣を載せました。

■探訪記(2011.08.04)
 所在地 : 福島県会津若松市追手町1-1

会津若松城と鶴ヶ城

会津にやってくるのは二度目。一度目は2008年の夏でした。私が住んでいる京都や故郷の九州長崎から見ると、東北はかなりの遠国なのは今でも変わらないことでしょう。しかし、それでも会津戦争の悲劇のひとつ白虎隊の事をはじめ、幕末から明治維新のころの歴史をたどる上で外せないこの会津の地は、昔からぜひ行ってみたい所の一つでした。 その幕末期、会津から京都へと私と逆の道をたどり、京都にやってきた松平容保をはじめとする会津武士たち。その任務は「京都守護職」というものでしたが、このころの京都の治安維持は大変なものでした。 もちろん藩内には京都守護職を受けるのに反対がなかった訳ではありません。それでも、正之の『会津家訓十五箇条』の第一条にあるように、「藩主が(幕府を)裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」とまで言わしめているように、「将軍家あっての会津藩」とばかり、最後まで幕府のために戦い続けました。


会津若松城という名称は、どうもなじみありません。会津出身の友人がいるのですが、やはり「鶴ヶ城」という言い方がしっくりくるとのこと。 会津といえばやはり戊辰の役での会津戦争を真っ先に連想してしまうのですが、かつてはこのお城は、伊達政宗や蒲生氏郷、上杉景勝そして江戸時代になってからは、庶子とはいえ、二代将軍秀忠の子である保科正之を藩祖とする会津松平家23万石の居城があった場所。奥州の中心地の一つとして、多くの有力大名がかつてこの地を治めていました。


表門から本丸へ

表門付近

切り込みハギ積み

鐘撞堂

鶴ヶ城の入り口、表門付近。このようにお城の正門たる門の近くには、巨石がおかれたり、切石を並べたり、、、とにかく魅せる演出がされていることがしばしばです。鶴ヶ城の表門付近もこのように切り込みハギの美しい石垣をみることができました。

 


改築して赤瓦になった天守閣

2008年8月撮影

2011年8月撮影

新旧の天守閣をほぼ同じアングルで撮影。新しい天守に採用されている赤瓦は釉薬を表面にコーティングして焼成した瓦で、会津のような冬の寒さが厳しい気候にあっています。

 

先に述べたように、鶴ヶ城自体の訪問は二度目でした。初めて来たときは白虎隊自刃地として知られる飯盛山などを歴訪しましたが、今回は主に城内を散策することができました。 しかし、その外観が大きく変わっています。大修理が施された天守閣は、形状こそかつてのままですが、まるで別の城のよう。特に、屋根瓦が黒から赤に変わったことにより不自然さを感じさせます。 しかし、それは全くの逆。確かに創建時の鶴ヶ城天守閣は黒瓦でしたが、慶安元年(1648)、保科正之のころに瓦を赤に葺き替えたことが分かっています。つまり、会津戦争の頃は、赤瓦だった訳で、白虎隊が飯盛山から見た天守の姿もむしろ現在の赤瓦の天守閣だったはずなのです。

 

心を一つに

天守閣

武者走り

天守台石垣1

天守台石垣2

天守閣入口

 

もうひとつ一度目の訪問と違うところは、東日本大震災のあとだったということです。内陸地なので津波の被害はなかったものの、福島といえば原発事故のこともあり、甚大な被害があった場所の一つ。ちょうど震災から半年が経過する頃で、復興の動きが見られつつあった時期だったことも忘れられないでしょう。 ちなみに写真左は北西方向から撮影した天守閣。日本100名城スタンプのデザインはどうやらこのアングルのようです。

それにしても立派な天守台石垣。鶴ヶ城内でも最も古い石垣の一つといわれています。特徴は「野面積み」打ち込みハギや切り込みハギが主流となる前の古い積み方です。

 

新島八重と山本覚馬

新島八重

山本覚馬

同志社大学の創設者、新島襄の妻、新島八重子の故郷としても知られる会津。幕末のジャンヌダルクとまでいわれたこの人物は、兄の山本覚馬とともに、明治期の京都の発展に多大な貢献をしました。天守閣内には、彼らの偉業を顕彰するかのように、写真が飾られていました。ちょうどその頃、大河ドラマ「八重の桜」放送が決まった頃だったこともあるのでしょう。

 

天守以外の建物跡など

北出丸

月見櫓

茶壺櫓

小田山

飯盛山

御三階跡

このお城は、すでに何度も紹介している会津戦争での攻防戦をみてもわかるように、かなりの堅城だったと考えられ、実際、高石垣と本丸から各方向に張り出すように造られた馬出しや出丸など多くの見所があります。その一つひとつには多くのエピソードがあるのですが残念ながらそれを具に紹介する暇はありません。 ただ、唯一、北出丸には物騒な名前が別にあります。ここに侵入した敵軍は、三方から集中攻撃を受ける形になるため、「みなごろし丸」というそう・・・。

「小田山」(下段写真左)会津戦争の時、新政府軍の砲台が置かれた

「飯盛山」(下段写真中央)白虎隊自刃の地

返す返すも天守閣の外観の美しさは特筆すべきものがあるでしょう。もちろん、この天守閣とそれに続く多聞櫓(南走長屋)以外はこれといった建物がないこともあるのかもしれません。しかし、それでも魅力的な天守閣はこの城の美しさを際だったものにさせています。 天守閣の石垣は、実は城内の石垣の中で最も古く、蒲生氏郷のころのものだといわれています。江戸初期の慶長16年(1611)8月、会津地方に大地震が来たのですが、その揺れにも耐えて現存しています。ちなみに、このときに創建時の天守閣は倒壊してしまったということです。その後、すぐに再建され、幕末を迎えましたが、会津戦争の時に小田山に据え付けられた新政府軍の砲台からののべつ間もない砲撃によって見るに堪えない姿になりました。 このとき残念ながら建物は破却され、しばらくは石垣を残すのみだったのですが、戦後しばらくは財政非常事態解決策の一環で、何と本丸内に競輪場が作られる有様だったとのことです。「武士は食わねど高楊枝」というわけにはさすがにいかなかったのでしょう。一方で、「腹が減っては戦はできない」ともいいますし。日本海海戦で東郷平八郎が乗艦した戦艦三笠さえも、戦後一時期ダンスホールとして使われていたことがあったとききます。その時代にはその時代にしか分からない様々な事情があってのことでしょう。現在、このように文化財保護を高らかに叫び、その恩恵にあずかる事ができること自体が感謝すべき事なんだと思います。 城内の解説文によると、天守閣は戦後再建されたとき、天守台から浮くようにつくられ、自身の荷重が天守台および天守台石垣にかからないように工夫されています。鶴ヶ城の天守閣は、外観復元天守であり、鉄筋コンクリート造なため、文化的な価値はないのですが、後世に残していくべきこのような歴史遺産の継承方法はなかなか評価できるものではないでしょうか。 鶴ヶ城の本丸内には、天守閣以外にも重層の建物「御三階」があったということです。昭和40年(1965)の天守閣再建からちょうど50年の平成27年(2015)の記念として、この御三階の再建やその他の建物の整備が進められているそうです。

本丸

天守閣から続く多聞櫓

 

鉄門

 

帯郭からの天守閣

 


2011.08.04訪問

第53話 新発田城 第55話 二本松城

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