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原爆遺跡
長 崎
01広島 | 原爆遺跡トップ
長崎の浦上地区。その中心地である松山町にあります。原爆落下中心地である爆心地公園の北側の小高い丘にあります。公園中央のこの銅像は平和祈念像といいます。毎年8月9日にこの像の前で平和記念式典が行われます。
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旧長崎医科大学正門 一本柱鳥居 如己堂 浦上天主堂 長崎平和公園

浦上天主堂
明治13年(1880)、旧浦上村庄屋屋敷があった浦上の丘に最初の天主堂が建設されました。大正3年(1914)完成の天主堂は昭和20年(1945)に原爆によって破壊焼失。戦後再建された天主堂は、昭和55年(1980)に当時のローマ法王、ヨハネパウロ2世の来日にあわせて改築され、全面赤煉瓦造りになりました。
長崎県長崎市本尾町1-79


被爆直後の天主堂 被爆した石像 崩れた鐘楼 被爆直後の鐘楼
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、長崎の浦上上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から北東に500mの至近距離にあった浦上天主堂は原爆で全壊しました。信徒も約12000人のうちの5分の3ほどに当たる約8500人が犠牲になったといわれています。被爆後も、広島の原爆ドーム同様、保存が検討されましたが、破壊が激しく断念。再建されて、現在に至っています。 禁教令が出されてから、浦上のキリシタンは四度の検挙、迫害を受けました。これらの事件を「崩れ」と呼んでいます。(浦上一番崩れ:寛政2年(1790)・浦上二番崩れ:天保13年(1842)・浦上三番崩れ:安政3年(1856)・浦上四番崩れ:明治元年(1868))長崎への原爆投下による多くの信徒たちの死は、これに続くものとして「浦上五番崩れ」ともいわれています。これらの像は、それを現在に伝える歴史の証人といえるでしょう。 重さ約50トン。にもかかわらず、原爆による爆風で約35mも吹き飛ばされました。天主堂の北側の川べりに当時のままで残されています。 被爆直後の鐘楼の写真です。案内板にあったものを撮影しました。

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長崎平和公園
浦上地区の観光地としては、中心的な場所。原爆資料館や原爆落下中心地公園(爆心地公園・原爆公園)と隣接しています。
長崎県長崎市松山町

平和の泉 浦上刑務支所跡 長崎の鐘 平和祈念像

長崎の鐘

碑文

「長崎の鐘よ鳴れ 長崎の鐘よ鳴れ 私達の肉親を奪った 私達のからだをむしばんだ あの原爆が いかに恐ろしいものであったか あの戦争が いかに 愚かなものであったか 長崎の鐘よひびけ 長崎の鐘よひびけ 地球の果てから 果ての果てまでも 私達の願いをこめて 私達の祈りをこめて」

平和の泉 長崎刑務所浦上刑務支所遺構
「水を」「水を」とうめき叫びながら死んでいった痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈願するために建てられました。刻々と変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形どり、鶴の港といわれる長崎港の鶴も象徴しています。
松山町・岡町・橋口町の三ヶ町にまたがる丘の上にありました。現在の平和公園があるところです。敷地約2万平方メートル、庁舎面積1.3万平方メートルの広大な施設でした。爆風と火災により、一瞬にして全施設が全壊、全焼しました。所内にいた全員(134名)が即死しました。周囲の高さ4メートル、厚さ25センチメートルの壁は、このようにほとんど根元から倒壊し、炊事場の煙突1本を残して全壊しました。

平和祈念像

世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955)8月の原爆10周年記念日に建立されました。制作は彫刻界の権威、北村西望氏です。高さは約10mあります。上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平和をすすめる姿、軽く閉じた目は、戦争犠牲者の冥福を祈っている姿を表しています。

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