われらがビザンツ帝国

第5章 14〜15世紀のビザンツ帝国
 滅亡へのカウントダウン。それでも強運と異民族への従属によって生きながらえていく帝国の最後の底力をみていきます。

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33 復活!われらがビザンツ帝国
 ビザンツ帝国はもう少しだけ続きます。
34 国際貿易におけるビザンツ帝国の黄昏
 かつては地中海貿易を独占していたビザンツ帝国にも見る影はありません。経済的には既に破綻状態。
35 オスマン=トルコによる滅亡の危機
 オスマン=トルコという超大国からの攻撃を食い止められたのは、運が良かったから!?


33 復活!われらがビザンツ帝国

 1261年にコンスタンティノープルを奪回して入城を果たしたニカイア帝国皇帝ヨハンネス4世(在位1258〜61)は、ビザンツ帝国皇帝ミカエル8世(在位1258〜82)として、ビザンツ帝国の復興を宣言しました。こうしてはじまったのがビザンツ帝国最後の王朝であるパライオロゴス朝(1261〜1453)です。
 半世紀間にも及んでニカイア帝国国民の念願であったコンスタンティノープル奪回は確かになされました。しかし、復興されたビザンツ帝国に昔日の面影はありませんでした。この時期になると、ヴェネツィアに代表されるイタリア諸都市の勢力が、コンスタンティノープルやギリシア各地などビザンツ領内に侵入し、主として商業上の権益を獲得していくからです。また、ビザンツ帝国の弱体化によって王朝を復興することに成功したブルガリアをはじめとするスラヴ人たちの勢力も脅威となり、ブルガリアに代わったセルビアなどがビザンツ帝国を脅かすようになってくるのです。これらスラヴ諸国は、新興のオスマン・トルコによって滅ぼされますが、最終的にビザンツ帝国を滅亡に追いやることとなるのも、このオスマン・トルコです。
 このように、ビザンツ帝国は復興したものの、滅亡までの約2世紀間、いわゆるパライオロゴス朝時代は惨めとしかいえない状況となります。しかしながら、文化の面ではこの時代は決して暗黒時代ではありませんでした。美術、建築などの分野において、西欧の影響が顕著にみられるパライオロゴス朝ルネッサンスの名で知られる新しい様式が生まれたのです。しかし、ここでは、文化史固有の問題として論述をここまでに留めておくことにします。
 経済的にはイタリア諸都市に従属し、政治的にもオスマン・トルコによって支配され、徐々に主体性を失ってゆくビザンツ帝国も、かろうじてしばらくは生き延びてゆくことができました。本章ではその辺りのことを明らかにしていこうと考えます。

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34 国際貿易におけるビザンツ帝国の黄昏

 ビザンツ帝国の重要な産業のひとつに絹織物産業があり、これがビザンツ帝国の外交の武器として大いに役だったことは既に述べた通りです。しかし、この時期には逆に外国産の絹織物がビザンツ人の中で愛好されるようになっていました。それだけ、イタリア商人による地中海進出が活発になったのです。
 ビザンツ帝国はノルマン人の脅威に対して、ヴェネツィアに援助を求めた代償として貿易特権を与えましたが、それを皮切りに1111年にはピサに、1154年にはジェノヴァにそれぞれ貿易特権を与えてしまうのです。ピサ、ジェノヴァに対しては、ヴェネツィアの独占を牽制する意図からの特権でしたが、これらは国際貿易からビザンツ帝国の勢力を衰えさせる格好の機会になったといわざるを得ません。
 パライオロゴス朝下には、イタリア商人による経済的支配が一段と強まり、ニカイア帝国のコンスタンティノープル奪回を援助したジェノヴァに完全な自由貿易特権を与えたのは勿論ですが、コンスタンティノープル攻略の黒幕であったヴェネツィアにさえも通商上の特権を与えていたのです。しかもビザンツ金貨であるノミスマの純度も帝国の金保有量の減少からとどまるところを知らずに低下し、14世紀初めには12カラットと、かつての半分となってしまったのです。かつて、国際通貨として使用されていたノミスマも、その地位を新興のドゥカット、ジェノヴィノ、フロリンなどのイタリアの金貨に取って代わられ、ビザンツ帝国内においてさえ、流通にはたびたびドゥカットが使用されていたほどなのです。
 また、プロノイア制度のもとで勢力をつけてきた貴族たちは、ビザンツ帝国の内政に積極的に介入し、特に14世紀前半からは皇帝の座まで狙うようになっていきました。しかも相争う各派は、本来敵であるはずのブルガリア、セルビアさらにトルコ人の助力を求めてしまいました。帝国周辺の異民族同士を争わせ、漁夫の利を得るという方法は、ビザンツ帝国の伝統的な外交政策でしたが、それを国内の紛争に持ち込んだため、彼らに約束した報酬の支払いだけでも衰退しきっていた帝国にとっては大きな負担となりました。また彼らの脅威から、経済面ばかりでなく、政治的にも従属を余儀なくされていくのです。
 15世紀になると帝国の領土はコンスタンティノープルのみに縮小されて、滅亡も時間の問題となっていきますが、とりわけビザンツ帝国の脅威となったのは、1299年に建国された新興のトルコ人国家、オスマン帝国です。
 こうして、内外に問題を抱えたビザンツ帝国は、1453年最終的にオスマン・トルコ(オスマン帝国)のメフメト2世(在位1444〜46、1451〜81)が率いる軍勢よってコンスタンティノープルを占領され、滅亡することとなるのです。

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35 オスマン=トルコによる滅亡の危機

 13世紀の小アジアには、君候(ベイ)に率いられたトルコ戦士(ガージー)集団による小国家がたくさんありました。それらの小国家群は、互いに勢力争いを繰り返していましたし、対外的にもモンゴル帝国の脅威にさらされていたので力は弱かったのです。このような状況は、ニカイア帝国の発展を間接的に助けることになったのですが、セルジューク・トルコと同じオズク族出身のオスマン(在位1299〜1326)がこれらトルコ族国家の統一に乗り出したのをきっかけに、大帝国への道を歩みはじめることになるのです。
 オスマンは、その後小アジア西北部に残っていたビザンツ領を攻撃したので、ビザンツ帝国の領土はますます縮小しました。こうしてビザンツ帝国の滅亡への秒読みが始まったのです。最終的にビザンツ帝国を滅ぼすのも、このオスマン=トルコなのです。
 オスマン・トルコは、先ずバルカン征服に乗り出しました。今や瀕死となってしまったビザンツ帝国よりも、セルビアをはじめとするスラヴ人国家対策の方が彼らにとっては優先課題だったということでしょう。こうして、1362年にムラト1世(在位1362〜89)は、コンスタンティノープルからそう離れていないアドリアノープルを征服してここをエディルネと改名し首都に定めた後、本格的なバルカン征服に取りかかったのです。こうして1389年に、コソヴォの戦いにおいてセルビア、ボスニア及びワラキアの連合軍を破りバルカン地方をほぼ手中に収めることにせいこうしました。しかし、そうなると今度はビザンツ帝国がその標的となる番になってしまったのです。
 オスマン・トルコの対ビザンツ支配は、徐々にエスカレートしていきました。とりわけ1389年にオスマン・トルコでバヤジット1世(在位1389〜1402)が即位すると、その支配はますます過酷なものとなっていきました。もはや、オスマン・トルコに従属していかなければ、存続することさえできなくなってしまったのです。
 やがて、オスマン・トルコから小アジアで唯一ビザンツ領の都市として残されていたフィラデルフィアを攻略するようにとの命令が下されます。その結果、フィラデルフィアはビザンツ帝国の軍勢によって陥落し、オスマン・トルコ領となったのです。同じビザンツ人に対して攻撃をしなければならなかったこの当時のビザンツ帝国は哀れであるとしかいいようがないでしょう。しかし、ビザンツ帝国が生き延びてゆくにはそこまで屈辱に耐えなければならなかったのです。
 しかし、いくらオスマン・トルコに従属を続けていても事態は良い方向へと向かうはずもありません。そればかりか、ビザンツ帝国の状況はさらに悪化するばかりです。
 こうしてビザンツ皇帝マヌエル2世(在位1391〜1425)はオスマン・トルコへの臣従を拒否したのです。当然、ビザンツ帝国への攻撃が再開されました。これに対して、マヌエルは西欧へ救援を依頼しました。そして、その救援を聞きつけて援軍が駆けつけてきたのですが、ハンガリー王ジギスムント率いる英・仏・独・伊などからなる西欧諸国十字軍は、1396年にニコポリスの戦いで、オスマン・トルコ軍に敗れてしまったのです。
 こうして、オスマン・トルコはバヤジット1世のもとで本格的なコンスタンティノープル征服に乗り出しはじめました。
 しかしその直後、一時的にオスマン・トルコの征服戦争は中断します。
 1402年、コンスタンティノープルを包囲していたバヤジット1世は、小アジアに侵入したティムール帝国の軍勢と戦うために包囲を解除して迎撃に向かったのですが、アンカラにおいて敗北してしまったのです。こうして、バヤジット1世は捕虜となり、オスマン・トルコは一時解体したのです。ビザンツ帝国は、中央アジアからやってきたティムールによって、思いがけなくもオスマン・トルコからの危機を脱出したのでした。

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