われらがビザンツ帝国

第2章 5世紀のビザンツ帝国
 フン族の侵入による滅亡の危機を中心に。如何にして、首都コンスタンティノープルが帝都としてふさわしい威容を誇るまでに発展したのか。

INDEX 第1章 | 第3章
5 都市の女王の誕生 〜5世紀のビザンツ帝国〜
  都市の発展には何が大切かが分かります。
6 「ローマ」でないのに「ローマ帝国」
  コンスタンティノープルは、なぜ「第二のローマ」となったのか。
7 「歴史上最大の引越し」、その真相
  ゲルマン民族の大移動の真相とビザンツ帝国のかかわりについて考える。
8 フン族の侵入と大地震
  フン族進入にコンスタンティノープルを襲った大地震。最悪の事態が発生する。
9 奇跡の突貫工事
  大城壁の再建とフン族の撤退について考える。彼らはなぜ、撤退したのだろうか。
10 フン族の意外な弱点
 簡単に言えばフン族は、お金目当てだったということ。ならば弱点は分かるはず。
11 フン族の西進と滅亡
 強力な指導者がいなくなった後は、衰亡するという歴史的公式の好例。


 都市の女王の誕生 〜5世紀のビザンツ帝国〜

 コンスタンティヌスが、ローマから首都を移したことによってコンスタンティノープルと改名されたこの地は、後に「都市の女王」と呼ばれて、地中海貿易および東西交易の中心地として栄えることとなります。しかし、もっとも一千年存続の要としての都市、あるいはビザンツ帝国の帝都としてふさわしい中身を持つにいたるのはまだまだ後の事です。5世紀はまさにコンスタンティノープルが大発展を遂げる時期で、その後6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世(在位527〜565)のもとで、帝都コンスタンティノープルは完成するのです。以下にコンスタンティノープルの発展を段階別に見ていくことにします。
 第一段階(コンスタンティヌスの遷都)
 平凡なローマ都市のひとつにすぎなかったビザンティオン(ビザンティウム)がビザンツ帝国の首都として大発展をとげる契機となる事件とは、いうまでもなくコンスタンティヌスによる遷都です。
 コンスタンティヌスは遷都にあたって「コンスタンティヌスの城壁」と呼ばれることとなる新城壁を建設しました。この新城壁によって、それ以前と比較して市域は10倍以上(約640ha)にも拡張されました。また、彼は新首都建設にあたり、帝国全土から優秀な建築家、ならびにふんだんな労働力を確保し、「新しきローマ」(ノヴァ・ローマ)であるとか「第二のローマ」(セクンダ・ローマ)という肩書きにふさわしい建造物を多く建設させました。
 さらに、コンスタンティヌスは人口の確保についても帝国全土に誘致策を積極的にとりました。そして、新首都の名称をコンスタンティノープルと改め、330年5月11日に盛大な祝典として開都式を執り行なったのです。
 しかし先に述べたとおりコンスタンティヌス時代のコンスタンティノープルは、後のような大都市の面影はまだ見られません。「コンスタンティヌスの城壁」の建設による市域の拡大はそのまま都市の発達には結び付きませんでした。都市の面積という器は確かに大きくなりましたが、それに伴う中身はまだできていなかったのです。当時の人口も、最盛期の人口にはゆうに及ばない約8万人程度と考えられています。
 第2段階(大城壁建設)
 遷都後約1世紀足らずのうちにコンスタンティノープルの急激な人口増加によってコンスタンティヌスの城壁内のみでは、人口を賄うことができなくなってしまいました。テオドシウス2世の大城壁と呼ばれることとなる次なる大城壁はコンスタンティヌスが建設した城壁のさらに外側に、このようなコンスタンティノープルの急激な人口増加に対する施策として、また当時世界を震感させていたフン族の来襲に備えるものとして建設されたものです。
 439年にこの大城壁が完成したことによって、都市の面積は約1200haへと拡張されました。数年後の447年に、大地震によって倒壊するが、数ヵ月の後に修復・補強されました。
 第3段階(聖ソフィア大聖堂の完成)
 この聖ソフィア大聖堂の完成を喜んだ皇帝ユスティニアヌスは、「ソロモンよ、私はあなたを凌駕せり。」と叫んだと伝えられています。この教会の完成によって首都コンスタンティノープルは「ソロモンの栄華」に肩を並べる繁栄に達したのです。
 この瞬間、コンスタンティノープルは名実ともに「第二のローマ」としての地位を確立したといえるでしょう。

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 「ローマ」でないのに「ローマ帝国」

 コンスタンティヌスによって建設されたこの帝国は、テオドシウス1世(在位379〜395)の時に真の誕生をしたといえます。彼の統治はビザンツ帝国の歴史にひとつの区切りを示し、帝国をローマ的伝統から遠ざけました。実際、彼のもとでキリスト教は国教となり、また彼の死(395年)に際して、ローマ帝国は東西に分離して二人の息子に別々に相続されました。
 しかし、ビザンツ帝国が次第にローマ的伝統から遠ざかっていく中でも常にローマ帝国理念も平行して存続し続けていました。
 すなわち、ビザンツ帝国の歴史はこれ以降、対立し矛盾する二つの原理によって動くことになります。ひとつは、現実的で、なによりも先ず、残された領土の維持とその国境内でのビザンツ人の発展を目指すものです。もうひとつは、理想的で、ゲルマン民族によって征服されているローマ、すなわち西方を再征服して古代ローマ帝国領を奪回することを目指すものです。ローマはゲルマン民族によって410年に征服されましたが、いわゆるローマ帝国理念とは、この時のローマ市陥落事件や、476年に西ローマ帝国が滅亡したこと、すなわち東ローマ(ビザンツ)帝国側にも時を同じくしてフン族の来襲による滅亡の危機にさらされ、ローマ帝国の伝統が途切れてしまうという危機的時期だったために形成されたものです。すなわちローマ帝国理念存続の起源はここにみられると考えられます。
 410年、西ゴート族の王アラリックはイタリアに侵入してローマ市を占領し略奪のかぎりを尽くしました。コンスタンティノープル市民は、ローマ陥落の知らせを受けて、コンスタンティノープルこそが第二のローマであり、ローマ帝国の伝統を守り受け継いでゆかなければならないという意識を持つことになったのでしょう。この時生まれた理念(イデオロギー)は、永くビザンツ帝国の中に生き続け、ビザンツ帝国の存続の要因のひとつとなったのです。

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 「歴史上最大の引越し」、その真相

 ヨーロッパの古代と中世を分ける出来事のひとつにゲルマン民族の大移動があります。
 ゲルマン民族の大移動をひきおこした直接的要因はアジア系遊牧民のフン族の圧力でした。フン族は4世紀に何らかの原因(気候の変化ともいわれていますが真因は不明)で西進を開始し、375年に黒海北岸に定住していた東ゴート族を征服しました。西ゴート族はこれを逃れ、大挙してドナウ川を渡り、ローマ領内に侵入して保護を求めました。この事件をきっかけに以後2世紀間にも及ぶゲルマン民族の大移動が起こるのです。
 ゲルマン民族が移動し、ローマ領内に大挙として侵入した結果、そこには多くのゲルマン民族による国家が誕生しました。しかし、ローマ帝国の東側には彼らの影響は少なかったのです。それというのも、この地がさらに西進してきたフン族によって再び騒然としたからでした。
 西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の渦中に彼らによって滅ぼされてしまいましたが、ちょうどその頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はフン族というゲルマン民族よりもむしろさらに恐ろしい敵と戦わなければならない状況が刻一刻と近づきつつあったのです。

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 フン族の侵入と大地震

 フン族侵入の恐れはすぐに現実のものとなりました。447年、フン族は首長アッティラのもとで強大化し、ビザンツ帝国領に侵入し、首都コンスタンティノープルをうかがう構えをみせたのです。
 まさにフン族侵入の恐怖に怯えていた頃、同年1月27日の深夜に、なんとコンスタンティノープルで大地震が起こりました。これによって、多くの建物が倒壊し、ひどいありさまになってしまいましたが、とりわけ衝撃だったことは、大城壁が倒壊したことでした。この城壁は、先に述べたようにコンスタンティノープルを外敵の攻撃から守るためにつくられたもので、439年に完成したばかりでした。ヨーロッパ中を恐怖のどん底へ陥れたアッティラの接近を前にして、コンスタンティノープルの市民は、410年のローマ陥落という惨事を思い浮かべて、生きた心地がしなかったことでしょう。

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 奇跡の突貫工事

 このような危機的状況において、なにより城壁の再建がのぞまれたことはいうまでもありません。確かに、城壁の修復は並大抵のことではできません。しかし、まもなく国家と市民が一体となって奇跡ともいえる突貫工事を成し遂げたのです。なんと市民約一万六千人が動員され、約3ヵ月で修復だけでなく、大城壁の外側にもう一重に城壁をつくり、しかもその外側に堀をつくったのです。
 しかしながら、ビザンツ帝国滅亡の危機は去ったわけではありません。ローマ領だったバルカン地方はフン族によって壊滅的な打撃を受け、都市は破壊や略奪の対象となりました。それなのに、コンスタンティノープルがフン族の攻略から免れることができたのは、ひとつにこれ以後ビザンツ帝国の伝統的な外交政策となる懐柔策がうまく機能したことが挙げられます。
 ビザンツ側は、アッティラに対して約二千五百キログラムにもなる黄金、すなわち貢納金を支払ったのです。アッティラは、さらに毎年一定の貢納金を受け取る約束をとりつけて、撤退をしていきました。しかし、彼は常に新しい機会を考えだし、年中使節を派遣する口実を作りました。ビザンツ側は、その都度使節団を丁重にもてなし、黄金を追加貢納したことはいうまでもありません。

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10 フン族の撤退

 フン族に対してはこのような懐柔策がうまく機能しました。なぜなら、フン族は略奪だけを興味としており、その土地に定住し、強力な国家を建設することに熱心ではなかったからです。
 また、フン族自身もコンスタンティノープル攻略が容易ではないと考えていたようです。元来、騎兵主体のフン族は広々とした場所での野戦は得意でしたが、攻城戦は苦手だったと考えられます。また、海と都市との連絡をさえぎる封鎖艦隊を全く所持していなかったのです。
 一説によると、テオドシウス2世の後任者であるマルキアヌス帝(在位450〜457)は、フン族に対して攻略、略奪の矛先をローマに向けるようにすすめたといわれています。これがフン族を西方へ転進させるきっかけとなったかどうかは定かではありませんが、フン族自身にも疫病の蔓延という危機に直面していたために、西進を余儀なくされたという事情がありました。
 しかし、このことをビザンツ側はキリスト教信仰になぞらえました。すなわち、大地震はビザンツ帝国に対する神の試練であるとし、また疫病の蔓延をフン族がビザンツ領の都市を占領した際に、多くのキリスト教女性を凌辱したために起こした神の天罰であるとしたのです。これによって、ビザンツ人のキリスト教信仰が一層高まり、逆に帝国の結び付きが強まりました。

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11 フン族の西進と滅亡

 このようにして西進したフン族も、西ローマ帝国にかわって強大化したフランク王国をはじめとして西ゴート、ブルグントおよび西ローマ帝国の連合軍に451年カタラウヌムの戦いで敗れてしまいました。そして、フン族の首長アッティラは、翌年ローマに侵入して教皇レオ1世(在位440〜461)と会見しましたが、その後撤退しました。さらに、453年にアッティラが死ぬと、一時ヨーロッパ中を恐怖のどん底に陥れたフン帝国は急速に崩れ去ってしまうのです。
 こうして、ビザンツ帝国はフン族の侵入という滅亡の危機から脱出することに成功しました。しかし、その後もビザンツ帝国は1453年の滅亡の瞬間まで幾度となく異民族の侵入による滅亡の危機にさらされることになります。

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