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全国で出会える歴史人物
中江藤樹
Nakae Toju |
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江戸時代初期の陽明学者、近江聖人 |
池田勇人 | オオクニヌシノミコト  |
生没年 |
慶長13年4月21日(1608.03.07) - 慶安元年8月25日(1648.04.21) |
生誕地 |
近江国高島郡小川村
(現在の滋賀県高島市) |
関係人物 |
父 |
中江吉次 |
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養父 |
中江徳左衛門吉長(祖父) |
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妻 |
久(伊勢亀山藩士、高橋小平太の娘)
布里(後妻、近江大溝藩士、別所友武の娘)
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子 |
宣伯(岡山藩客分)
仲樹(岡山藩士)
季重・常省(岡山藩士、対馬藩客分) |
名 前 |
中江与右衛門藤樹
諱 : 原(はじめ)
字 : 惟命(これなが)・もく軒(もくけん)・顧軒(こけん)
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その他 |
江戸時代初期の陽明学者、近江聖人 |
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大洲城(愛媛県大洲市) |
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生涯 |
慶長13年4月21日(1608.03.07)、近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島市)に生まれました。9歳の時に米子藩主加藤貞泰の家臣だった祖父、吉長の養子になり米子へ移りました。その後、主君の加藤貞泰の転封によって伊予国大洲へ移住しました。藤樹が10歳の時です。大洲では、曹渓院天梁和尚に師事し、また、京都から来た禅僧に論語を学びました。
27歳の時に藩に辞職願を提出しますが拒否され、脱藩しました。京都に潜伏した後に、故郷に帰ってきて、伊勢亀山藩士高橋小平太の娘、久と結婚しました。その五年後には長男宣伯をもうけています。さらに、正保3年(1646)、39歳の時に次男、仲樹が生まれますが、同年4月30日に夫人を亡くします。
翌年には再婚して三男季重(常省)が生まれましたが、同年8月25日、41歳の若さで没しました。
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亡くなる半年前に「藤樹書院」を開きました。藤樹とは、屋敷に藤が植えられていたことから門人たちが「藤樹」と呼んだことにちなみます。幕府の官学である朱子学ではなく、知行合一(ちこうごういつ)つまり実学を重視する陽明学を教育したことに特徴があります。代表的な門人に岡山にある「閑谷学校」の基礎を築いた熊沢番山などがいます。
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(C)社会科ちゃん |
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