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吉川経家
Kikkawa Tsuneie |
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鳥取城主 |
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前 | 後  |
生没年 |
1547〜1581.11.21 |
関係人物 |
父 |
吉川経安(毛利家家臣) |
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子 |
吉川経実 |
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養子 |
吉川経言 |
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戒 名 |
平等院殿前吏部兼因幡権守寂輔空心大禅定門 |
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生涯 |
鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」
鳥取城は名門山名氏の当主、山名豊国が毛利方として在番していました。しかし、天正9年(1581)に織田信長の先鋒として羽柴秀吉が侵攻してくると、さっさと降服したため、家臣の森下道誉、中村春続らによって追放されました。そこで、代わりに鳥取城に入城したのが吉川経家です。
経家は部下400人を率いて入城しましたが、その時自分のための首桶を持参したということですから、決死の覚悟だったと考えられます。
さて、約4000人の守備兵とともに、秀吉の侵攻に備えて籠城の準備が進められましたが、経家はあまりの兵糧の少なさに愕然とします。これより以前、秀吉の策略で近江の商人たちによって付近の兵糧はすべて高値で買いあさられており、城兵の一部もあまりの高値につられて備蓄米を売っていたのでした。
これに対し、秀吉は鳥取城を包囲すると、無闇な攻撃は行わず、兵糧攻めに入りました。籠城4か月、最後は城内では兵糧を食いつくし、ついには人肉まで食べるなど地獄さながらの状況になりました。
経家は遂に、秀吉の開城の求めに応じ、降伏することにしました。この時、秀吉は経家の助命を認めており、山名豊国を追放した森下道誉と中村春続のみが切腹することで降伏に応じるつもりでしたが、「すべての責任は将たる自分にある」として、助命の申し出を断りました。それに対し、秀吉は織田信長に「経家が自害しても良いか」とわざわざ確認を取っています。
そして、城中の広間において、自刃して果てました。享年35歳。死に臨み、子どもたちに託した遺書は現存しています。
鳥取の事、夜昼二百日こらえ候。兵糧尽きはて候まま、我ら一人御ように立ち、各々を助け申し、一門の名を上げ候。その幸せ物語り、おきおきあるべく候。
かしこ つね家 天正九年十月二十五日
あちやこ、かめしゆ、かめ五、とく五 まいる 申し給へ。
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辞世の句 「君が名をあだになさじと思ふゆへ 末の世までと残し置くかな」
「いにしへのかりの庵とすみかへて もとの都にかへれりこそすれ」 |
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