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山内一豊の正室 |
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前 | 後  |
生没年 |
1557〜1617.12.31 |
関係人物 |
父 |
遠藤盛数(郡上八幡城主)ともいわれているが諸説あり |
夫 |
山内一豊 |
子 |
与祢(よね、天正大地震で死亡) |
養子 |
湘南宗化(幼名を拾・ひろい)
山内忠義(康豊の子、土佐二代藩主) |
名 前 |
千代・まつ(諸説あり実際は不明) 見性院 |
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生涯 |
出自は諸説あり、定かではありません。郡上八幡城を築城した遠藤盛数の子という説が有力で、郡上八幡城下には、一豊と千代の像があります。北近江の大名だった浅井家の家臣、若宮喜助友興の子という説もあります。
実は、名前も正確には分かっておらず、「千代」という説が最も有力なため一般的にはこの名が通っていますが、例えば高知城の銅像には「山内一豊の妻の銅像」としか紹介されていません。
17・8歳のころ、後に土佐一国の主となる山内一豊と結婚しますが、当初は貧しい暮らしだったといわれ、枡を裏返しにしてまな板代わりにして使用していたなどの逸話が残されています。
「内助の功」という言葉がありますが、この言葉は千代の良妻ぶりからきた言葉ともいわれ、それにまつわる様々なエピソードがあります。
「馬揃え」
一豊が若くてまだ貧しかった頃、安土城下で「馬揃え」(兵馬品評会)が行われることになり、一豊のために嫁入りの時の持参金を取り出して「今が夫の一大事」と馬購入のための黄金十両を差し出したというエピソード。
「笠の緒の密書」
関ヶ原の戦い前、三成方の密書を笠の緒に隠し持たせ、関東にいた夫一豊に知らせ、家康の信頼を勝ち得たというエピソード。
また、手芸にも優れていたらしく、様々な模様の布を縫い合わせて内掛けを作るなどしており、その模様に似た紙のことを「千代紙」と呼ぶようになったという説もあるほどです。
一豊との間には与祢という娘が生まれましたが、天正13年11月29日(1586.1.18)の天正大地震で失い、その後は子に恵まれませんでした。
養子として、与祢の供養として訪れた妙心寺の門前(京都にあった山内家の屋敷前ともいわれている)に捨てられていた男子を「拾(ひろい)」と名付けて育てました。その男子は、のちに京都の妙心寺の住職、湘南宗化になりました。
関ヶ原の合戦の功によって、夫が土佐一国を領し、高知城へ入城。その時、千代も従って土佐へと移り住みましたが、1605年に一豊が他界すると、半年後には土佐を引き払って二度と戻りませんでした。
その後は、京都の妙心寺の近くに移り住み、養子の湘南宗化と再開するなどしながら余生を過ごし、元和3年(1617)に京都で亡くなりました。
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