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浦上天主堂 |
被爆した石像1 |
被爆した石像2 |
崩れた鐘楼 |
最初の天主堂は着工から実に30年後の大正14年(1925)、尖塔が完成したことで竣工しました。そして、2個の鐘楼がつるされました。原爆によって、倒壊した天主堂が再建され、この尖塔にも被爆した鐘が再びつるされました。アンジェラスの鐘として現在も毎日鳴らされています。 |
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分。長崎上空で炸裂した原子爆弾によって、爆心地から500mの至近距離にあった浦上天主堂は破壊されました。現在、天主堂の前に置かれてあるこの像は、その時に被爆したものです。 |
禁教令が出されてから、浦上のキリシタンは四度の検挙、迫害を受けました。これらの事件を「崩れ」と呼んでいます。(浦上一番崩れ:寛政2年(1790)・浦上二番崩れ:天保13年(1842)・浦上三番崩れ:安政3年(1856)・浦上四番崩れ:明治元年(1868))長崎への原爆投下による多くの信徒たちの死は、これに続くものとして「浦上五番崩れ」ともいわれています。これらの像は、それを現在に伝える歴史の証人といえるでしょう。 |
重さ約50トン。にもかかわらず、原爆による爆風で約35mも吹き飛ばされました。天主堂の北側の川べりに当時のままで残されています。 |
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天主堂と崩れた鐘楼 |
被爆直後の鐘楼 |
被爆直後の天主堂 |
天主堂入口 |
原爆の威力を現在に伝えています。 |
被爆直後の鐘楼の写真です。案内板にあったものを撮影しました。 |
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、長崎の浦上上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から北東に500mの至近距離にあった浦上天主堂は原爆で全壊しました。信徒も約12000人のうちの5分の3ほどに当たる約8500人が犠牲になったといわれています。被爆後も、広島の原爆ドーム同様、保存が検討されましたが、破壊が激しく断念。再建されて、現在に至っています。 |
中央の十字架像は被爆して破損しましたので複製されました。しがし、悲しみの聖母像(左)と聖ヨハネ像(右)は無傷のまま残り、もとあった位置に置かれました。 |
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司祭館 |
全景 |
正面 |
天主堂の石垣 |
同じ敷地内にあり、天主堂に隣接する建物です。 |
最初の仮天主堂が建設された後、フランス人の当時の主任司祭フレノ神父が石と煉瓦造りのロマネスク様式の聖堂を設計、監督し、信徒たちの労力奉仕や献金によって新聖堂が建設されました。途中、資金難やフレノ神父が過労に倒れたこともあり、屋根を木造瓦葺に変更して大正3年(1914)に一応の完成をみました(双塔の完成はさらに11年後)。床面積は352坪で当時東洋一だったとの事です。被爆倒壊後、現在の天主堂が509坪の面積を誇る大聖堂として再建されました。さらに昭和55年(1980)にローマ法王、ヨハネパウロ2世の訪問に併せて、外観を赤煉瓦造、内部を美しいステンドグラスに飾るなどの改築を行いました。 |
明治13年(1880)、旧浦上村庄屋屋敷があった浦上の丘に最初の天主堂が建設されました。大正3年(1914)完成の天主堂は昭和20年(1945)に原爆によって破壊焼失。戦後再建された天主堂は、昭和55年(1980)に当時のローマ法王、ヨハネパウロ2世の来日にあわせて改築され、全面赤煉瓦造りになりました。 |
浦上天主堂がある浦上の小高い丘は、旧浦上山里村の庄屋屋敷のあったところです。明治13年(1880)に浦上教会が聖堂建設のため、買収しました。この石垣は、その後の原爆によって聖堂が倒壊した後、修復工事を経て、現在まで庄屋屋敷の遺構として残っています。 |